ポスター製造スタッフ【成井の目】怒る? 叱る?
おはようございます。
製造・成井です。
以前聴いた法話からです。
お寺の門の両脇に立つ仁王像は、身震いするような激しい形相です。
皆さんは「慈悲の教えである仏教に何故このような形相で?」と思われるでしょうが、
実は、仏の慈悲の一つの現れとして、仁王像は彫られてます。
仁王様は、人々の迷いの心を「怒っている」のではなく、「叱っている」姿なのです。
「怒る」と「叱る」は、違います。
「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、
怒っているのか、叱っているのか、判断できません。
声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか分かりませんね。
どうしてでしょう?
その違いは「心」にあるからなんです。
「怒り」は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、
全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる恐ろしい心です。
自分の言うことを聞かない者や、自分の悪口を言う者に対して起きる心です。
その人がいると自分の思い通りにならない、自分にとって邪魔な人に対して起きる心なんです。
常に発想の中心が「自分」。
自分の損得のことばかり、いつも考えている人に起きる心です。
その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、周りも本人も不幸にしていきます。
一方「叱る」のは、相手に何とかよくなってもらいたい、相手に幸せになってもらいたい、
今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との想いから、
その人のために発する言葉です。
その発想の中心は「相手」です。
叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。
誰も嫌われたくありませんから、皆、つい叱るのを躊躇してしまいます。
そして、大抵は叱らないで、陰で「あれではダメだ」と笑ったり馬鹿にするのです。
そんな中、損得無く嫌われるのも覚悟して、その言いにくいことを指摘してくれるのが
「叱る」という行為ですから、これは慈悲心がなければできないことなんです。
今の時代、慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば
そんな人は人生にもそうそういない、とてもありがたい人なのです。
叱られた当人は、なかなか有り難いとは思えないのですが、
この心の向きが変われば、ガラッと自分も周りも変わっていくのです。
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怒っているのか、叱っているのか。
怒られているのか、叱られているのか。
時が経ち、身心が成長して初めて気づく時もありますから
やはり磨くべきは「心」ということなんですね。
今日も毛が無く、否、怪我無く!